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help リーダーに追加 RSS 梶井照陰「限界集落」(フォイル)

<<   作成日時 : 2008/07/30 20:02   >>

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 梶井照陰「限界集落」(フォイル)を読了。「限界集落」という言葉を、最近、ニュースなどで耳にすることが多くなってきた。「限界集落」とはいったいどんな集落なのだろうか。
 この本によれば、長野大学の大野晃氏が提唱されている概念で、『65歳以上の高齢者が集落人口の50%を超え、独居老人世帯が増加し、このため集落の共同活動の機能が低下し、社会的共同生活の維持が困難な状態にある集落』なのだそうだ。

 では、「限界集落」の何が限界で、何が問題となっているのだろうか。

 まず、「社会的共同生活」とは、NHKの解説委員室ブログに掲載されている大野氏自身の記事によれば、「冠婚葬祭をはじめ農業用水や生活道の維持管理など」とのことである。

 そうした「社会的共同生活」の維持が「集落」を形づくる根幹であるとすれば、日本の多くの都市がすでにその根幹を失っている。実際に、都市での独居老人の孤独死が社会問題になってもいる。しかし、誰も大都市を「限界都市」とは呼ばないし、むしろ、そうした「社会的共同生活」の主役は高齢者であるとさえ感じているのではないだろうか。

 そうしてみると、本当の「限界」は、「社会的共同生活の維持」などではないようだ。

 先の記事を読み進めてみると、「限界集落が消滅集落へ移行」すると書かれている。つまり、本当の「限界」は、集落としての存続の「限界」ということなのだ。そして、そのことが生み出す問題を、大野氏が、「社会的共同生活の維持が困難」になっていることなどではなく、労働力が失われた山村で人工林が放置され、それが自然災害や下流域の環境の悪化に結びつくことと考えているのが分かる。

 なぜ、かくも定義にこだわったかというと、「限界集落」という言葉の持つ暴力性に社会が、特に行政が、あまりにも無頓着であるような気がしてならないからだ。

 確かに山村を舞台とした産業は衰退してきた。その結果、若者が仕事を求め山を離れていったのだろう。子供たちの声が消え、街としての機能やにぎわいが失われてきたのかもしれない。しかし、だからといって、そうした集落を「限界」と呼ぶ権利が誰にあるのだろうか。

 言い方を変えよう。「限界集落」という言葉には、そこに住んでいる人々が生存権を侵され、その暮らしが不幸であると決めつけているような気がしてならないのだ。

 この本の著者も「集落で生まれ育った人たちのなかには田舎でずっと暮らしていたいと思う人たちも多い。その人たちが安心して暮らしていけない状況というのは、日本の貧しさなのではないかと思う。」と結んでいるが、そうした村々で暮らす人々は本当に不幸なのであろうか。

 著者は、写真家であり、この本も三分の一以上が写真で占められている。その写真に写された「限界集落」に住む人々の表情は、その発する言葉とは裏腹に、私には「足りている」ように見えてならない。

 確かに、不便をかこってはいるだろう。しかし、その不便をおしてでもその地で暮らしたいという気持ちの中には、あきらめ以外に、自然豊かなその土地への愛着や、ともに暮らす人々との心の通い合いという、かけがえのないものがあるのだと思う。そうした人々の不便さを解消する努力は大切であるが、だからといってそこに住む人々を不幸と決めつけてはいけない気がする。

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