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東野圭吾「片想い」(文藝春秋)を読了。「片想い」というタイトルからすぐには結びつかないが、性同一性障害を真正面から扱った小説である。 そもそも、性同一性障害とはなにか。『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律』から定義を引いてみると、こうだ。 「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。 つまり、性同一性障害とは、「生物学的な性別と心理的な性別とが違うという確信を持ち続けている状態」ということになろう。もっとかみくだくと、「身体が男性で心は女性」あるいは「身体が女性で心は男性」ということだ。しかし、「心は女性」であるとか「心は男性」であるとはどんなことなのか、分かったようで分からない。 たとえば、「身体が女性で心は男性」というケースで考えてみたとき、「心は男性」というのは一体どういうことなのだろうか。法律どおりに解釈すると、身体も男性になりたい、社会的にも男性として扱われたい、と願うことが「心は男性」ということのひとつの条件であるようだ。 しかし、男性として扱われたいといっても、性役割そのものが社会のありようや文化によっても違うのではないか。ましてや、「身体が男性」イコール「心が男性」と言われてしまうと、「身体が女性で心は男性」という状態が本当に分からなくなる。すなわち、性同一性障害とはなにか、という最初の問いに戻ってしまうのだ。 作者自身にも、そんな疑問があるのだろう。主人公・西脇哲朗の妻、理沙子にこう言わせている。 どうして一致しないといけないの?心が男、肉体は女だっていいじゃない。 人の他人に対する扱いは、相手が女か男かで違うということだよね。 こんな難しい問題、いわば解のない問題をモチーフにしてひとつの作品に仕立てあげた作者の力量を改めて感じる。しかしながら、美男美女同士という設定の主人公夫妻の葛藤については、性同一性障害に悩む登場人物たちとの対比を狙ったのかもしれないが、感情移入することが難しく、そのせいで幾分か興がそがれた気がする。 ちなみに、「片想い」というタイトルには、性同一性障害を持つ人たちの心から身体へのかなわぬ想いや、男と女のすれ違うだけの想いが込められている。 |
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本の虫 2008/01/04 08:23 |
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